雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

レジで財布を置いただけ

よく行くスーパーで適当なおかずと飲み物などを買い、レジに並ぶ。

何度も来ているのでレジ打ちの人も見慣れている。

いつも通り会計を済ませ、カバンに買ったものを詰めていると、レジ打ちの人が歩いて来て

「お客様財布お忘れです」

ああ、すいませんと受け取ると、少し笑顔を見せて戻っていった。

そのときのその人の笑顔は、接客の時の笑顔とは違って見えた。

「レジ打ち」という役割に徹しているその人から、人間めいたものが垣間見えた気がした。(むろんこれも仕事の一部であろうけれど)

例えばあなたが、いつも通りコンビニにいき、いつも通りにレジに並んだとき、店員がいつもと違う言葉遣いで接客をしたり、親しげに話しかけて来たりしたら、きっと狼狽するだろう。

あるいは「○○くん、こんにちは」とあいさつをしていた人がある日突然「よう○○」と言って来たら、戸惑ったり、不愉快な思いをするかもしれない。

私たちは、人を規定しつつ生活している。コミュニケーションにおいて、相手の反応はある程度予期できる。その予測を大幅に外れたとき、そこに人間性を見るのである。

つまり、私が規定したキャラクターを忠実に守っている人は、自然である。しかしあまりにも自然が過ぎると、もはや意識に上らなくなる。テンプレート化した作業の一部になるのだ。

「接客」というキャラクターを与えられた店員に、愛想を求める人がいる。それは無論店員との人間的な関わりによって関係性を築こうなどということではなく、「店員」という役割の中に「愛想」が含まれているのである。

したがって、あえて店員を人間化したくないからこそ、「店員」の役割を全うし、それによって自分の意識から消え去ってくれることを願っているのである。