雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

読書についての覚書

読書をするのは、反対したり反駁するためのものであってはならない。信じたり、早呑み込みするためであってもならない。話や談論の種を見つけるためであってもならない。重さをはかり、考慮するためのものである。(中略)読書は心豊かな人を作る。談話は用意のある人、書き抜きすることは確実な人にする。      

 

フランシス・ベーコン『随筆集』 

 反対するため、信じるためというのは書物主体の読み方である。重さをはかり、考慮することは自己中心の読み方である。つまり、書物主体でなく自己を主体として読むべきであるということを言っている。

読書と談話と書き抜きが並べて語られていることには意味があるだろう。書き抜きをすることが読書に結び付くことは明白だが、談話は少し意外な気がする。しかし読書が著者との対話であると考えると、談話と似ていると考えられる。

ここでは読書は他者の意見を取り入れ、教養として形成してゆく手段として考えられている。

私自身について申しますと、自分が主要史料と考えるものを少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。(中略)読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。(中略)経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような二つの過程は同時に進行するもので、これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。

 

E.H.カー『歴史とは何か』

 ここでは歴史学の視点から、読む=史料を収集する、書く=史料を解釈するという対立構造が描かれている。史料の解釈と史料の選択が呼応しているというのだ。

 

次は少し長いがショウペンハウエルの引用である。

いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。

 

もともとただ自分の抱く基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着に過ぎない。

 

読書は行ってみれば自分の頭でなく、他人の頭で考えることである。

 

読書で生涯を過ごし、さまざまな本から知恵を汲み取った人は、旅行案内書を幾冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。

 

思索の意志があっても思索できるわけではないのである。机に向かって読むことならば日常茶飯事である。だがさらに考えるとなると全く別である。(中略)外からの刺激が内からの気分と緊張に出会い、この二つが幸運に恵まれて一致すれば、対象についての思索は自然必然的に動き出す。

 

ショウペンハウエル『読書について(補足と補遺)』

 ここでは自己の思考を中心として読書を進めるというベーコンの発想がより洗練された形で表れている。読書は他人に考えてもらうことであり、人は自分の思考しか理解できない、という二つの前提から論が展開される。

旅行案内書の例で思い浮かばれるのはベルクソンの哲学である。ベルクソンは持続という概念を説明するために、パリの写真をいくら集めてもパリを歩いた経験にはかなわないという。ショウペンハウエルにおける「自分で思索する」ことはベルクソンの持続に近いのかもしれない。

最後の哲学者らしい一文は、読書の有用性も示唆している。消極的な言い方ではあるが、思索がしたくともできないときには読書がその指針になってくれるという。

小林 「論語」を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味が分からなければ、無意味なことだというが、それでは「論語」の意味とは何でしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。

 

小林秀雄/岡潔『人間の建設』

我々は普通、 本を読むときには、意味が分からなければ無意味だと思う。

しかし自分の思索が読書の中心になるべきであるならば、本の内容や意味はさしたる重要性を持たないことに気付く。むしろ、哲学を発展させてきたものは多様な解釈であったともいえるのである。

しかし偉大な思想家の思想という物は、自分の考が進むにしたがって異なって現れてくる。そして新に教えられるのである。(中略)私は思う、書物を読むということは、自分の思想がそこまでいかねばならない。

 

ただむつかしいのみで、無内容なものならば、読む必要もないが、自分の思想が及ばないのでむつかしいのなら、何処までもぶつかって行くべきでないか。

 

西田幾多郎「読書」

 「自分の思想がそこまでいかなければならない」のであれば、思想が及んでいないときに本の意味を考えるのは無用であろう。

この言葉は励ましの言葉ともとれる。むつかしくて読めない本に悪戦苦闘している人は、そう焦ることも不安がることもない。思想がそこまで行ったときに再び読めばよいのである。

 

古今東西の知識人の読書に関する考察を集めてみても、そこにはかなり共通の方向性があることがわかる。ある人の考察は、他の人の考察を発展させたり、期待したりしているかのようである。

やはり中でも誰もが言っているのが、自ら考えなければならないということである。読書というのは自分の思索の過程で必然的に出会うものである。裏を返せば十分な思索のない者には真の読書体験は得られない。

本を読もうと思うならば、まずもって自己の思索を顧み、しかるのちに自己の要求に沿った読書、自己の思索の追いついた読書をするべきである。