返歌
今、ハイデッガーの『言葉についての対話』が手許にある。
ハイデッガーと、ある日本人が存在と言葉についての対話を交わすという内容だ。
この本は、九鬼周造への言及から始まる。九鬼は、「いき」という感情を、ハイデッガーの哲学をヒントにして解釈したことで有名な哲学者だが、これに対してハイデッガー本人は疑問符を呈する。
いわく、日本特有の感情をさばくのに、どうして西洋の概念を用いるのか、むしろ日本の枠組みで理解しなければ意味がないのではないか、と。
この対話でも言われることだが、異なる言語は異なる論理からなっており、それらは常に異なっている。西洋の言語精神を出ることなくして日本的なものを掴むことはできないのだ。ただ、それでもお構いなしに他の文化を侵略するのが西洋だ、というのが彼の師フッサールも主張するところであるが。
しかしながら、希望は失われたわけではない。その後、根本的に異なった言語の本質源泉が同じである、ということが語られるのである。人間は確かに言語と不可分な存在であるけれども、言語以外の部分でどこかつながっているところがあるに違いない。
さて、「ちょっと哲学に興味がある、という人」というのは、まさに僕なのだ。
国語の先生が、楽しそうにフーコーのことを話すのを見て、どんなもんだろう、と思った、けれどもいきなりフーコーから読めるものでもないから、とりあえずプラトンでも、という感じだった。
孫子や荀子は、読んだ部分が実感として素直に理解された。一旦「孫子が言っていたこと」として留保しておいてから、徐々に現実と照らし合わせて考えることができた。
西洋哲学で同じことをやろうとしてもできない。哲学は思考そのものを問うものだから。個別に具体的に検証されるのでなく、ア・プリオリに納得されなければいけないから。
ホッブズと荀子の性悪説を素朴に比較することはできない。言語精神が違うのだ。
東洋哲学における「道」の観念は直ちに理解せられるのに、西洋哲学における「形相」を理解するのはそう容易いことではない。
してみれば、西洋人にとって哲学はは、我々が思うほどの歴史性はないのかもしれない。