雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

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「でも私、本当は紅茶の方が好きなのよ。」

女は言った。

しかし彼女が飲んでいるのは深煎りのブラックコーヒーであった。

「紅茶にはお砂糖を入れるわよ。コーヒーを紅茶にしたってしょうがないじゃない。」

彼女の視線はまっすぐだったが、その視線の先には何もない。

煙草の灰を落としながら、わずかに笑みを見せた。

周囲は静かだった。他に人もいるが、ほとんど気にならない。胡麻塩頭の店員がへの字口をして皿を拭いている。

カウンターにはソーサーに乗ったコーヒーカップとスプーン、それから綺麗な灰皿が載っている。

「好みっていうのは選ぶものでしょ。」

壁掛けのスピーカーから流れる曲が終わり、すぐに次のが流れ始める。

彼女と周囲のものの流れの間に僅かなズレがあるような気がする。

また別の人の中にもズレがあって、そのズレがこの特殊な空間を形作っているのだ。

今流れている曲も、次の曲も、その間の無音も、一定の時間を占有しているはずだけれど、それはここではない全く別のところの話にすぎないのだ。

全ては綯い交ぜになる。

ブラックコーヒーの中に滴らせた一滴のミルクは、二度と元には戻らない。

文学

文学について思いを巡らしてみるのは誠に面白いことである。

文学は非常に特殊なものである。

まず指摘できることはその個別性である。数学に代表される様な理念的な学の働きが、同じものの同定であるとすれば、文学は唯一つのものの産出である。

その意味で、文学は極度に時代的、風土的制約を受ける。

そこから直ちに言えることは、人間とのつながりを保とうとするということである。

自然科学や数学の諸対象が、時間的空間的制約から逃れるためにあたかもそれ自体独立して存在するかの様に振る舞うのに対して、文学の対象は独立した意味を持ち得ない。

その理念的でないあり方にも関わらず、文学はある種の普遍性を備えている。

というのも文学がその価値を認められるのは、その内容が理解され、その中に何らかの価値を見出されるからに他ならないからである。

したがって文学作品は、ある程度不変の意味と、ある程度不変の価値がなければならぬのである。

この不変性は、幾何学における不変性とは厳密な意味で異なっている。

この不変性は言語化できないのである。

あつはなついね

お題「わたしの暑さ対策」

 

暑いですね。

僕はエアコンは好まんです。

空気がきれいじゃなくなって、のどが痛くなる、気がするんです。

 

根性論が好きなので、のべつ暑いところにいれば、そのうち慣れるだろう、こういう考えもあります。

 

しかし暑いと生産性が落ちるのはもう仕方がないことでありまして、どう耐えようったって耐えられるもんじゃあございません。

いくら暑いのは平気だとかひと夏乗り切るとか申しましても、頭の回転が落ちたり体がだるくなったりしちゃあ乗り切ったとは言い切れません。

 

そこで大事になってくるのが食生活ですな。一にも二にも食べもんが悪くっちゃア話にならない。

夏には無論夏野菜がいいわけです。キュウリ、トマト、ナス・・・このくらいしか知らんのですが。

調べたところピーマン、オクラ、トウモロコシ、ニラ、カボチャ、ズッキーニなんてのも夏野菜だそうです。

夏によく見るやつらですね。

私はトマトと卵の炒め物、チンジャオロース、麻婆茄子なんかを簡単でよく作るのですが、全部夏野菜ですな。

彼らのおかげで今夏も乗り切れそうです。

では、麻婆茄子でも作るか。

 

追記

麻婆茄子はやめました。

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読書についての覚書

読書をするのは、反対したり反駁するためのものであってはならない。信じたり、早呑み込みするためであってもならない。話や談論の種を見つけるためであってもならない。重さをはかり、考慮するためのものである。(中略)読書は心豊かな人を作る。談話は用意のある人、書き抜きすることは確実な人にする。      

 

フランシス・ベーコン『随筆集』 

 反対するため、信じるためというのは書物主体の読み方である。重さをはかり、考慮することは自己中心の読み方である。つまり、書物主体でなく自己を主体として読むべきであるということを言っている。

読書と談話と書き抜きが並べて語られていることには意味があるだろう。書き抜きをすることが読書に結び付くことは明白だが、談話は少し意外な気がする。しかし読書が著者との対話であると考えると、談話と似ていると考えられる。

ここでは読書は他者の意見を取り入れ、教養として形成してゆく手段として考えられている。

私自身について申しますと、自分が主要史料と考えるものを少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。(中略)読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。(中略)経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような二つの過程は同時に進行するもので、これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。

 

E.H.カー『歴史とは何か』

 ここでは歴史学の視点から、読む=史料を収集する、書く=史料を解釈するという対立構造が描かれている。史料の解釈と史料の選択が呼応しているというのだ。

 

次は少し長いがショウペンハウエルの引用である。

いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。

 

もともとただ自分の抱く基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着に過ぎない。

 

読書は行ってみれば自分の頭でなく、他人の頭で考えることである。

 

読書で生涯を過ごし、さまざまな本から知恵を汲み取った人は、旅行案内書を幾冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。

 

思索の意志があっても思索できるわけではないのである。机に向かって読むことならば日常茶飯事である。だがさらに考えるとなると全く別である。(中略)外からの刺激が内からの気分と緊張に出会い、この二つが幸運に恵まれて一致すれば、対象についての思索は自然必然的に動き出す。

 

ショウペンハウエル『読書について(補足と補遺)』

 ここでは自己の思考を中心として読書を進めるというベーコンの発想がより洗練された形で表れている。読書は他人に考えてもらうことであり、人は自分の思考しか理解できない、という二つの前提から論が展開される。

旅行案内書の例で思い浮かばれるのはベルクソンの哲学である。ベルクソンは持続という概念を説明するために、パリの写真をいくら集めてもパリを歩いた経験にはかなわないという。ショウペンハウエルにおける「自分で思索する」ことはベルクソンの持続に近いのかもしれない。

最後の哲学者らしい一文は、読書の有用性も示唆している。消極的な言い方ではあるが、思索がしたくともできないときには読書がその指針になってくれるという。

小林 「論語」を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味が分からなければ、無意味なことだというが、それでは「論語」の意味とは何でしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。

 

小林秀雄/岡潔『人間の建設』

我々は普通、 本を読むときには、意味が分からなければ無意味だと思う。

しかし自分の思索が読書の中心になるべきであるならば、本の内容や意味はさしたる重要性を持たないことに気付く。むしろ、哲学を発展させてきたものは多様な解釈であったともいえるのである。

しかし偉大な思想家の思想という物は、自分の考が進むにしたがって異なって現れてくる。そして新に教えられるのである。(中略)私は思う、書物を読むということは、自分の思想がそこまでいかねばならない。

 

ただむつかしいのみで、無内容なものならば、読む必要もないが、自分の思想が及ばないのでむつかしいのなら、何処までもぶつかって行くべきでないか。

 

西田幾多郎「読書」

 「自分の思想がそこまでいかなければならない」のであれば、思想が及んでいないときに本の意味を考えるのは無用であろう。

この言葉は励ましの言葉ともとれる。むつかしくて読めない本に悪戦苦闘している人は、そう焦ることも不安がることもない。思想がそこまで行ったときに再び読めばよいのである。

 

古今東西の知識人の読書に関する考察を集めてみても、そこにはかなり共通の方向性があることがわかる。ある人の考察は、他の人の考察を発展させたり、期待したりしているかのようである。

やはり中でも誰もが言っているのが、自ら考えなければならないということである。読書というのは自分の思索の過程で必然的に出会うものである。裏を返せば十分な思索のない者には真の読書体験は得られない。

本を読もうと思うならば、まずもって自己の思索を顧み、しかるのちに自己の要求に沿った読書、自己の思索の追いついた読書をするべきである。

七夕と関係ない話

スマートフォン抗うつ剤の代わりになるというのは、確かにその通りだろう。

インターネット上には無限のコンテンツが生み出され続けている。

一つのページに載っている情報をすべて集めても、人一人の情報処理能力を超える。

情報の氾濫の中に敢えて身をゆだねて、いわば現実逃避をしているのに近いか。

情報の派手さ、目新しさでいえば、近所を散歩したくらいでは到底スマホには勝てっこない。

しかし、我々の周囲に起こる出来事は、その都度予測不能で、一回性で、新鮮な出来事であることも確かだ。

科学的に予測可能な出来事であっても、観察者の思考、感情はオリジナルである。

情報のダイナミックさ、支離滅裂加減ではスマホの情報の方が数段上である。

媒体で考えると事態は逆である。即ち、自然界の現象は全身を持って受けることができるが、スマホの場合は主として目と耳くらいである。

インターネットの世界が我々に文字通り「触れる」こともなかろうし、匂いを放つこともなかろう。

スマホを通じた世界が一辺数センチの長方形と音で完結するのに対し、自然界のなんと大胆なことか。

 

スマホは便利だ。スマホで重要な情報を得たり、緊急のやり取りをしたりすることもあろう。

しかしスマホ利用は往々にして受動的になってしまうのが難点である。

主体的なスマホ利用を心掛けましょう。

罪と罰

今一度前提を無にして問いたい。

罪とは何か。罰とは何か。

けだし、罪とは客観的なものではない。ある人が誰かに対して罪の意識を感じても、相手の方は何とも思わない、ということはありうる。

例えば、ある人がうっかり誰かのものを壊してしまった。彼は謝ったが、相手は悪気はなかったし大事なものでもないし気にするな、というような場合である。

この場合当人には罪の意識があるが、相手は罪とみなさなかったのだ。

だから本来罪とは罪を犯した本人にのみ認められるものだ。

例とは逆に何気なくした言動が人を傷つけたような場合、罪とは言えない。それは迷惑である。

罪が内面的にのみ現れうるものであるならば、罰は自明である。

罰は内面的な罪の意識に対する反動であり欲求である。

ただ、以上のような罪、罰の考え方は一般に認められない。これだけを認めてしまった先にあるものは単なる無秩序である。

法では罪は明記されているから、客観的なものである。これは無論、司法において実際的であらんとするためである。

上のような理想的な罪の定義を採用してしまえばひとえに個人の裁量に任されるのみであって、司法による、すなわち国家機関による刑の執行は不可能になるであろう。

ではそもそもなぜ、罪を犯した本人が主体的に罪を償うのでなしに、国家機関が罰を決定するのか。

罪人には判決に不満もあろう。司法の決めた罪は重すぎる。あるいはむしろ軽すぎる、と。

人は言う。「それでは被害者がかわいそうだ」「それでは世間が許さない」

被害者が実はさほど苦しんでいないのであればその意見は的外れだったというだけだ。

では被害者が重い苦しみを抱えていたとしたら、どうであろうか。

被害者が苦しめばそれだけ、罪人の罪の意識も重くなる。それで罪の意識を感じない人は、いくら罰しても無駄である。

罪人の何らかの欠陥で同情の能力を欠いているのであれば、それは罪ではない。悪でもない。

では世間が許さないというときの世間とは何か。それは自分のことではないか。

「私が許さない」というといかにも説得力に欠けるところを言い換えてごまかしたに過ぎない。よしんば世間なるものが許さなかったとしても、そんなものに罪人を罰する資格はない。

客観的なものが罪人を罰するべきであるのは論を俟たない。人間には罪の意識を感じる能力と共に、自分の罪から逃げようとする傾向も持っているからだ。また、罪を償おうとしても直接被害者と交渉するのは難しいことが多いからだ。

とはいえその罰は、怨恨であってはならない。憎悪であってはならない。

罰を下すものは、罪人の罪の意識をよくよく勘案するべきだ。

罪を負えるのは罪人のみである。罪を償えるのも罪人のみである。

権威主義と教育

ルソーは『エミール』において、「私はエミールに、どんな職業よりも前に、人間として生きることを教える」と書いている。

ロダンは「肝心なのは(中略)芸術家である前に人間であることだ」といっている。

我々は人間である。しかし、改めて考えてみれば、我々はしばしば人間らしくない行動をしたり、そういう人を見たりする。

ここで、「人間である」というのは上田閑照のいうところの自覚をもって主体的に行動する人のことである。

孫子の有名な「彼を知りて己を知れば百戦して殆(あや)うからず」には己が含まれていることが重要である。相手を十分理解しても自分を知らなければ半分負けたようなものなのである。

カント『啓蒙とは何か』の有名な一句「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである」における「未成年状態」とは、無自覚で批判的意識を欠いた状態である。

サルトル反ユダヤ主義に関する精妙な分析を見てもよい。「彼ら(反ユダヤ主義者)は誰かを嫌うことによって自己から目を背けているのだ」「彼らはその他あらゆるものになりたがるけれども、人間だけにはなりたがらない人間なのである」誰かをことさらに嫌う人は、嫌うことそれ自体のうちに架空の自己を投影しているのである。

サルトルにおける反ユダヤ主義者は、カントにおける未成年者でなくて何であろうか!

真摯に自己を見つめること、自覚を持つことは案外に難しいものである。

それを助けることこそが、教育の役割に他ならない。

無自覚であることの要因は多々あろうが、権威主義者は典型的な未成年者であるということは言えるとおもう。

権威主義者は権威に依存し、権威に自己の人格を投影する。忘我、無我というのは一度自覚を持ってからのことであるから単に未発見のままなのである。

だから彼らには確固たる自我という物がない。行動の指針は他に仰ぐしかない。

彼らには批判的意識もない。批判するための基礎も理性も持たないからである。

彼らが彼らである限り、彼らは自らの蒙を啓き、自覚にいたるなどということはおよそできそうにない。

彼らを独り立ちした人間にさせるにはどうしたらよいだろうか。

権威主義に陥る要因の一つは不安である。社会の不確かさ、自己の無力さ...

——ただしここに「生の儚さ」は含まれない。生の儚さ、即ち無常観は、権威の存在をも否定する。それゆえ不確かさの中での生き方を模索するという新たな段階へシフトする。コジェーヴの言う日本的「スノビズム」はこの世界観の中で生まれるものといえるかもしれない——

では、彼らの不安を取り除いてやればそれでいいのだろうか。社会は不確かでないことを示すためにシステム論や構造主義、はたまた自然科学的法則を提示し、自己が無力でないことを示すために技術という名の魔術を伝授すればそれでよいのか。

そうではない。そうした営為の行き着く先は人間中心的な自然支配であり、その限りでは自然と、さらには人間とすら豊かな関係は結べない。

 

 

つかれたのできょうはここまで