雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

思考ノート

哲学について少しだけ、つまらないお話に付き合っていただけたら幸いです。

哲学にはいくつかの問題点があるように思います。

それをお話するにはまず、哲学とは何か、というところから始めなければなりません。

思うに、これに明確な解を与えられた人はいままでもこれからもいないと思うのですが、私なりに重要だと思われることを上げれば、「そもそも論」と「概念論」です。

古代ギリシアでは哲学は学問全てを指していました。それぞれが分化独立してゆくにつれて哲学の射程は縮まり、それらの根本を問うものに限られるようになった、ということが一つ。

また、私たちは概念なしに生活ができません。しかしそれらの概念をしっかり理解しているわけではないのです。そこで、この概念を分類してちゃんとした意味を見つけてやる、ということが一つです。

もちろんこれは哲学の十分な定義では到底ない、ということには注意が必要ですが。

それに、この二つの哲学のアスペクトは互いによく似ている、いやむしろ、全く同じものなのではないか、とすら思われてきます。どちらも、人間がものを見るその見方に関する考えだ、ということもできるでしょう。

それで、最初に述べた問題点というのは何だ、ということになりますが、それは、哲学の歴史性についてです。

言い換えれば、哲学は哲学史と切っても切れない関係にあるのです。

よく言われるように、哲学は古代ギリシアで生まれ、中世はキリスト教に受容され、近世になってキリスト教との分離が起こり、啓蒙主義と結びつき、カントは合理論と経験論を批判的に統一し、ヘーゲルにおいてドイツ観念論が大成された、という流れがあります。

こう見ると、やはり一つの流れになっている。哲学の内部でも、前世代の批判が起こっていたり、外部でも社会の変動と哲学は強く結びついております。

それは現代思想も変わらぬことです。これまでの哲学なくして現代思想はないし、現代社会という外部的状況も無視して通れないわけです。

だから哲学書を読むと必ず哲学者の名前が出てきますし、その哲学者が使った概念についての説明が添えられます。例えばプラトンという名前とイデアという概念が一緒に出てくるわけです。そしてこの概念は、時代的、社会的状況と強く結びついている。

でも思い出してほしいのです。哲学ということにおいて私たちが問いたいのは、だれがどんなことを考えたかではないのです。私とはどういうもので、科学とは、経済学とはどういうもので、愛とは何か、神とは何か、そういう私たちの在り方に根差した問いこそ、哲学が問うべきものなのです。

たしかにこれまでの多くの哲学者はそうした問いについて考えてきたに違いありません。しかし、その内容に惹かれて哲学書を読んでも、その哲学書は必ず他の哲学者の名前を出し、参考図書を大量に並べます。また、その哲学者が使っている概念も、他の誰かから輸入したものに違いないのです。そうなると、ちょっと哲学に興味がある、という人でさえ、デリダを読むためにはプラトン以降の哲学者を網羅しなければならない、ということが起こってきてしまいます。

これはあまりに内輪話過ぎやしないでしょうか。いわば「哲学」という大部屋に大勢の人がいて、その一人一人は他の誰かのことを話している、というように思えてしまいます。

そんな状況では、カントの「人は哲学を学ぶにあらず、哲学することを学ぶ。」という言葉や、ショーペンハウエルの「大量の知識は自分で考えぬいた一つの問題にしかず。」という言葉も虚しく響くだけではないでしょうか。

ここまで日本の話が一つも出ていないことにお気づきでしょうか。

哲学は西洋生まれ西洋育ち色の白いやつは大体友達、です。

厳密に言えば、ロシアやアメリカも哲学の外部、ということになります。

日本に哲学が入ってくるのは明治時代、岩倉使節団からです。それ以前は文字通り「日本に哲学なし」だったわけです。

日本思想ということで、儒学や仏教哲学を思い浮かべる人もいるかもしれません。

たしかにそれらも、人間について、生きることについて深く考えを巡らせたものに違いありませんが、そこで使われた概念は、まぎれもなく東洋的なものです。だから決して哲学とはよばれないのです。