雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

神経病者と権威主義

権威主義的パーソナリティなる語は主に全体主義の文脈で用いられるものであり、それゆえ現代ではさしたるアクチュアリティを持たないと目されるかもしれない。

しかし権威主義の特徴を少しでも考慮したらばそのような考えは表面的なものに過ぎないと気づかされる。

権力を持った人格に対して恐怖を抱きつつ全幅の信頼を置くことで、自己の人格を放棄することが、典型的な権威主義的パーソナリティの特徴である。

権威を人格にとどまらず、自然法則や運命、あるいは宗教的な教義に置き換えることも可能である。

他者に対する過酷な態度、権威への盲従、恐怖や不安による指導は全て権威主義に結び付けて考えられるテーマである。

端的に言って現代では権威主義的パーソナリティはむしろ増加傾向にあるようにすら思われる。一般的な市民の多くは権威主義的傾向を持つ。

神経病者は、社会の不条理に抵抗することから、権威に反旗を翻すのを避けられないことは容易にわかる。

E・フロムによれば反権威主義的態度は二つに分類できる。権威主義を内に秘めつつの権威への反抗と、いかなる権威にも反対する革命的態度である。

神経病者は後者でなければならない。ある権威への批判の背景に別の権威への依存があってはならない。

というのも権威主義的パーソナリティは人格の放棄へと繫がるからである。

神経病者はその強烈な人格によって自己の意志を貫徹するものであるから権威一般に対して腹を据えかねる。

したがって自然、神経病者は絶対的な根無し草となる。

彼はどの集団にも属さないアウトサイダーである。

神経病者と物語志向性3

神経病者とは、社会の不条理を抱え込み、それへの反抗をやめることができない人である。

物語は、人間を形成するもので、人間はめいめい物語に対する志向性を持つ。

ここで、神経病者における不条理は物語であるということができるだろう。

彼はあまりに大きな物語に出くわしてしまったために、物語志向性が変化してしまったのである。

彼の上げた声は全て彼独自の世界に依拠しているため、他の人には特異な物語として現象する。

多くの詩やデュシャンの≪泉≫によく表れているように、本にせよ芸術作品にせよ「作品」という形式はあらゆるものに物語性を与える。

神経病者が、独自の世界に依拠して、上げた声が「作品」として作り上げられたときに、特有の物語が提示、現象され、それらの物語が人の物語志向性を変化させる。

物語志向性が変わった人は、それによって世界が変わり、その人自身も変わるのである。

このようにして神経病者は人を変えることができるのだ。

神経病者と物語志向性2

人間を形成するものは物語である。

物語とは一回性を持った出来事である。

人は当たり前の出来事は意識しない。水を飲むとか自転車を漕ぐとか日常的な動作をいちいち意識していたらキリがない。

翻って、意外な出来事は意識に上る。人はそれが自分の思いと裏腹であれば残念だとか悲しいとか言い、目的に合っていれば合理的だと言い、合っていなければ間抜けだとか面白いとか言う。また、未来の出来事や想像の出来事もこれに含まれる。

そうした物語が、事故を規定する材料となる。

同じ景色を見ても、個人によって感じ方が違うように、人の意識に上る物語はそれぞれ異なる。

心配性の人は望まない物語を多く現象し、楽天家の人は好ましい物語を多く現象し、科学者は物質の運動や構成に関する物語を多く現象する。

こうした物語の現象の傾向を物語志向性と呼ぶ。

物語志向性は人によって異なるが、少しずつ変えることができる。

物語の現象そのものが志向性を変えるのである。

多くの嬉しい出来事が、心配性な傾向を緩和することもあるだろうし、ある悲劇的な出来事がそれに類する出来事へ覆いをはらうこともあるだろう。

神経病者と物語志向性1

人と異なる考えを持ち、確固とした意思を持って信念を貫く人を、中国のある運動家に倣って神経病と呼ぶことにする。

ここでは名の通った文学者、哲学者は軒並み神経病である。

神経病への対抗としてあらわれるものが文学あるいは哲学である。

解消しえない錯誤、違和感、不条理へのアンチテーゼである。

随ってそうした人たちはその青年時代から大きな神経病を引きずってきたのである。

実際、任意の文学者の作品を取り上げてみると、そこには必ず神経病の実が生っている。

正常な、何の変哲もない、ありきたりな人物は文学も哲学もできない。彼らは神経病を持たないからだ。

 

読書人より。

良い読書は自己の内面の要求による読書である。

しかし内面の要求に適した本がどれであるかを知るにはある程度の読書体験が必要である。

それゆえその要求に従って多くの本を読めばよい。

その際、その読書に少なからぬ苦痛を感じたらその時はやめることも一つの手である。

書店で目を引く本を見つけたら、その本のことを忘れてしまわないように、買っておくべきである。

読むのをやめたり手を付けていなかったりして本棚に入れたままの本に負い目を感じる必要はない。

よい本とそうでない本を一目で見分ける方法はないのである。

その感じ方は人によるし、同じ人でも時を経れば変わるものだからである。

だから今読む気にならなくとも、時がたてば必要になる本というのも実際存在する。

有名だから価値があるのだろうと思っていろいろな本に手を出すのは危険である。

始から自分の読むことのできる本は限られているし、自己の要求に合致していないからである。

良い読書は自由で、自己中心的なものである。

筆者のためでなく、自己のために、自己のためだけに読書をするのが良い。

欲しくて諦めた本シリーズ

 今日久しぶりに本を買った。つねに机の上に図書館の本が載っているので、汚れのない、自分の本というのは新鮮な感じがした。この本は誰にも返さなくてもいいし、汚しても怒られることはない。絶対汚したくないけど。

 しかし犠牲無くして得られる勝利なし、一冊の本を諦めたのだった。『フランシス・ベイコン・インタビュー』という本だ。

 私がベーコンのことを初めて知ったのは、テレビと本屋である。「怖い絵」特集みたいな番組の企画でインノケンティウス10世の肖像の習作が取り上げられた。しかしそこでは名前は覚えていなかった。のちに本屋に行ったときに『僕はベーコン』という本でベーコンのことを知った。

 最初はたぶん哲学者の方を思い浮かべたと思う。それで画家のベーコンと哲学者のベーコンが別人であることを確かめようとページをめくると、芋虫のような生物を描いた絵画が載っているページで手が止まった。そのとき受けた印象は言葉にしづらい。シャガールの画を見たときにも同じような感じを受けたと思う。

 それからベーコンの画に触れる機会はなかったが、あの感覚は忘れがたいものがある。そんなところでふとこの本が目につき、心躍ったわけだが、結局は諦めてしまった。いつか買う日が来るだろうか。

 ちなみに諦めた理由は、すでに2冊本を手にしていたからです。

レジで財布を置いただけ

よく行くスーパーで適当なおかずと飲み物などを買い、レジに並ぶ。

何度も来ているのでレジ打ちの人も見慣れている。

いつも通り会計を済ませ、カバンに買ったものを詰めていると、レジ打ちの人が歩いて来て

「お客様財布お忘れです」

ああ、すいませんと受け取ると、少し笑顔を見せて戻っていった。

そのときのその人の笑顔は、接客の時の笑顔とは違って見えた。

「レジ打ち」という役割に徹しているその人から、人間めいたものが垣間見えた気がした。(むろんこれも仕事の一部であろうけれど)

例えばあなたが、いつも通りコンビニにいき、いつも通りにレジに並んだとき、店員がいつもと違う言葉遣いで接客をしたり、親しげに話しかけて来たりしたら、きっと狼狽するだろう。

あるいは「○○くん、こんにちは」とあいさつをしていた人がある日突然「よう○○」と言って来たら、戸惑ったり、不愉快な思いをするかもしれない。

私たちは、人を規定しつつ生活している。コミュニケーションにおいて、相手の反応はある程度予期できる。その予測を大幅に外れたとき、そこに人間性を見るのである。

つまり、私が規定したキャラクターを忠実に守っている人は、自然である。しかしあまりにも自然が過ぎると、もはや意識に上らなくなる。テンプレート化した作業の一部になるのだ。

「接客」というキャラクターを与えられた店員に、愛想を求める人がいる。それは無論店員との人間的な関わりによって関係性を築こうなどということではなく、「店員」という役割の中に「愛想」が含まれているのである。

したがって、あえて店員を人間化したくないからこそ、「店員」の役割を全うし、それによって自分の意識から消え去ってくれることを願っているのである。