雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

人付き合いと食事

新年度が始まると、「親睦を深める」等の名目で、初対面やほぼ初対面に近いような人と出かけたり、食事をしたりする機会が多くなる。

しかし、一度立ち止まって考えてみてほしい。その必要はあるのか、と。それは最適な方法か、と。誰かを傷つけてはいないか、と。

親睦を深めるために、どうしたらよいかということを考えてみよう。

簡単である。口実を作ればよい。

話をし、一緒に何かをする口実さえあれば、人が仲良くなるきっかけくらい作れる。

それでだめならば、なにをしようとだめだ。それは相性の問題である。

以上のことは男女の間であっても同性間であっても変わらない話だ。

考えてみれば、「親睦を深める」目的で行われる大抵のことは、口実を作ることに他ならない。

必要に迫られて、協力し合ったり、互いを知ろうとしたりするのは、良い付き合いのもっとも良いきっかけである。

まあ、要は自然に相手に話しかける口実さえあればよいのである。

そうした場合に、最もよくあるのが、食事である。

たしかに、話をしながら食事をするのは仲を深めるのにいい方法である。

しかし、それを話をする口実として見たとき、そこには「話をしなければならない」という無言の圧力が発生する。

話をするのが自然な場では、無論、話をしないのは不自然になる。

よってそうした食事の場では、義務感によってトークを盛り上げようとする奴隷が大量に発生する。

そうなってしまったらもう食事どころではない。料理はそこに鎮座するものとみなされ、食事をしている時間を埋めるために、気まずくしないために、会話をする。

いわば自分たちで頼んだ料理によって会話をさせられ、鎮座する料理はそれが食べ終えられるまでずっと「親睦を深めよ」というプレッシャーを放ち続ける。

一言でいえば、そういうことは食事に失礼なのだ。

食事とは、自分の生命のために何者かの生命をいただくことである。感謝をして、味わって食べなければ失礼である。

テレビを見たり人と話したりして何を食べたかわからない、うまいかどうかもわからない、という食事は、いくらおいしいものを食べてもコンビニ弁当と大差ない。

もちろん、私は食事をしながら話をしたり、テレビを見たりすることがだめだというのではない。

食事をするときには、ある程度、食事を楽しみに思い、食事に重きを置くべきだと思うのである。

仲のいい友人や、恋人、あるいは家族と食事をする際、味わうことなく食べることはないのである。

ところがそれが初対面の人や営業相手、先輩や上司との食事になると、おいしい料理に舌鼓を打ち、料理についての感想を語りあうなどという余裕はなくなる。

より良い食事のため、生命への畏敬のため、食事で「親睦を深める」のはほどほどにしよう。