雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

罪と罰

今一度前提を無にして問いたい。

罪とは何か。罰とは何か。

けだし、罪とは客観的なものではない。ある人が誰かに対して罪の意識を感じても、相手の方は何とも思わない、ということはありうる。

例えば、ある人がうっかり誰かのものを壊してしまった。彼は謝ったが、相手は悪気はなかったし大事なものでもないし気にするな、というような場合である。

この場合当人には罪の意識があるが、相手は罪とみなさなかったのだ。

だから本来罪とは罪を犯した本人にのみ認められるものだ。

例とは逆に何気なくした言動が人を傷つけたような場合、罪とは言えない。それは迷惑である。

罪が内面的にのみ現れうるものであるならば、罰は自明である。

罰は内面的な罪の意識に対する反動であり欲求である。

ただ、以上のような罪、罰の考え方は一般に認められない。これだけを認めてしまった先にあるものは単なる無秩序である。

法では罪は明記されているから、客観的なものである。これは無論、司法において実際的であらんとするためである。

上のような理想的な罪の定義を採用してしまえばひとえに個人の裁量に任されるのみであって、司法による、すなわち国家機関による刑の執行は不可能になるであろう。

ではそもそもなぜ、罪を犯した本人が主体的に罪を償うのでなしに、国家機関が罰を決定するのか。

罪人には判決に不満もあろう。司法の決めた罪は重すぎる。あるいはむしろ軽すぎる、と。

人は言う。「それでは被害者がかわいそうだ」「それでは世間が許さない」

被害者が実はさほど苦しんでいないのであればその意見は的外れだったというだけだ。

では被害者が重い苦しみを抱えていたとしたら、どうであろうか。

被害者が苦しめばそれだけ、罪人の罪の意識も重くなる。それで罪の意識を感じない人は、いくら罰しても無駄である。

罪人の何らかの欠陥で同情の能力を欠いているのであれば、それは罪ではない。悪でもない。

では世間が許さないというときの世間とは何か。それは自分のことではないか。

「私が許さない」というといかにも説得力に欠けるところを言い換えてごまかしたに過ぎない。よしんば世間なるものが許さなかったとしても、そんなものに罪人を罰する資格はない。

客観的なものが罪人を罰するべきであるのは論を俟たない。人間には罪の意識を感じる能力と共に、自分の罪から逃げようとする傾向も持っているからだ。また、罪を償おうとしても直接被害者と交渉するのは難しいことが多いからだ。

とはいえその罰は、怨恨であってはならない。憎悪であってはならない。

罰を下すものは、罪人の罪の意識をよくよく勘案するべきだ。

罪を負えるのは罪人のみである。罪を償えるのも罪人のみである。