雨宿り

何かにちなんだりちなまなかったり。

権威主義と教育

ルソーは『エミール』において、「私はエミールに、どんな職業よりも前に、人間として生きることを教える」と書いている。

ロダンは「肝心なのは(中略)芸術家である前に人間であることだ」といっている。

我々は人間である。しかし、改めて考えてみれば、我々はしばしば人間らしくない行動をしたり、そういう人を見たりする。

ここで、「人間である」というのは上田閑照のいうところの自覚をもって主体的に行動する人のことである。

孫子の有名な「彼を知りて己を知れば百戦して殆(あや)うからず」には己が含まれていることが重要である。相手を十分理解しても自分を知らなければ半分負けたようなものなのである。

カント『啓蒙とは何か』の有名な一句「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである」における「未成年状態」とは、無自覚で批判的意識を欠いた状態である。

サルトル反ユダヤ主義に関する精妙な分析を見てもよい。「彼ら(反ユダヤ主義者)は誰かを嫌うことによって自己から目を背けているのだ」「彼らはその他あらゆるものになりたがるけれども、人間だけにはなりたがらない人間なのである」誰かをことさらに嫌う人は、嫌うことそれ自体のうちに架空の自己を投影しているのである。

サルトルにおける反ユダヤ主義者は、カントにおける未成年者でなくて何であろうか!

真摯に自己を見つめること、自覚を持つことは案外に難しいものである。

それを助けることこそが、教育の役割に他ならない。

無自覚であることの要因は多々あろうが、権威主義者は典型的な未成年者であるということは言えるとおもう。

権威主義者は権威に依存し、権威に自己の人格を投影する。忘我、無我というのは一度自覚を持ってからのことであるから単に未発見のままなのである。

だから彼らには確固たる自我という物がない。行動の指針は他に仰ぐしかない。

彼らには批判的意識もない。批判するための基礎も理性も持たないからである。

彼らが彼らである限り、彼らは自らの蒙を啓き、自覚にいたるなどということはおよそできそうにない。

彼らを独り立ちした人間にさせるにはどうしたらよいだろうか。

権威主義に陥る要因の一つは不安である。社会の不確かさ、自己の無力さ...

——ただしここに「生の儚さ」は含まれない。生の儚さ、即ち無常観は、権威の存在をも否定する。それゆえ不確かさの中での生き方を模索するという新たな段階へシフトする。コジェーヴの言う日本的「スノビズム」はこの世界観の中で生まれるものといえるかもしれない——

では、彼らの不安を取り除いてやればそれでいいのだろうか。社会は不確かでないことを示すためにシステム論や構造主義、はたまた自然科学的法則を提示し、自己が無力でないことを示すために技術という名の魔術を伝授すればそれでよいのか。

そうではない。そうした営為の行き着く先は人間中心的な自然支配であり、その限りでは自然と、さらには人間とすら豊かな関係は結べない。

 

 

つかれたのできょうはここまで