人間と情緒と日本人とくだらなさと個人的趣向に関する身勝手な考察
私はくだらないものが好きである。
いつからか、落語が好きになって、「寿限無」「まんじゅうこわい」「ぞろぞろ」「粗忽長屋」「鼠穴」など、よく覚えてやってみたりしたものである。
「鼠穴」や「芝浜」などは人情噺と呼ばれ、心に訴えかけるような話だが、やはり最後のサゲはちゃんとくだらない。
「寿限無」や「まんじゅうこわい」はよく知られた笑い話で雰囲気も軽いのだが、人生観とでも言おうか、笑えるだけではすまされない何かがある。
落語は舞台芸術として客を巻き込む笑いと、話としての深さが共存しているのだろう。
『枕草子』『徒然草』の時代から日本に連綿と受け継がれる随筆の文化だが、ここにもくだらないものが数多く登場する。
随筆なのだから、取り上げる内容など何でもよいのだが、公表する書にもかかわらず悪口や弱音が書かれているのには少し驚かされる。
中でもお気に入りなのが本居宣長の『玉かつま』で、「人にかりたる本に、すでによみたるさかひに、をりめつくるは、いと心なきしわざなり」という文である。
漢字がびっしりと敷き詰められている間にこの言葉を見つけたとき、なんだか不意を突かれたような気持になった。
九鬼周造の随筆に「偶然の産んだ駄洒落」というのがあって、駄洒落について大真面目に考察をしているのだ。
ほんの二ページほどの文章だが、十分よく著者の人柄を表しているように思われた。
他には、高校で国語の資料集の、尾崎放哉の項に載っていた句「咳をしても一人」、「入れものが無い両手で受ける」に魅せられた記憶がある。
これもふとした思いが口をついて出たつぶやきである。
何ら論理的根拠のないくだらない思いつき、くだらない話には案外人を引き付ける力がある。
私たちは、何の目的も、意味もないようなくだらなさに、思いがけず共感を覚えてしまう生き物なのだろう。